現在、私が注目する生命科学分野の技術が3つある。
1つ目は、がんの免疫療法。
がんの治療法には、これまで「切る」「焼く」「毒を盛る」の3つの対抗手段しかなかった。
切るとは外科手術、焼くとは放射線治療、毒を盛るとは抗がん剤治療のことで、各々に副作用があるのが問題だった。
がんの免疫療法とは、身体に本来備わる免疫機能を利用するため、こうした副作用がない画期的な治療法である。
2つ目は、オートファジー(自己貪食)。
誰でも中学の時に学んだ細胞の基本的な機能のことだ。
オートファジーによって細胞内にゴミが溜まらないように常に衛生を保っている。
実はこの機能が鈍化することであらゆる病気を引き起こすことがわかっている。
アルツハイマーもその一つである。
最後が本書に登場するクリスパー(正確にはCRISPR-cas9)だ。
そして、このクリスパーがこれまで紹介した2つを差し置いて、世の中に与える影響が一番大きいであろう技術でもある。
がんの免疫療法もオートファジーも人間が今以上に長生きする治療法として画期的なものであることに違いはないが、
クリスパーは治療だけではなくて、人類のエンハンスメント(改良)すら可能となる技術である。
本書は、丸々一冊このクリスパーについて書かれた本で、今や巷に溢れているクリスパー本をいくつか手にするよりも、本書一冊を読めば十分過ぎるほどの内容となっている。
クリスパーはいかにして誕生したのか
クリスパーとは、簡便かつ自在にDNAを編集できる技術であらゆる遺伝子疾患を治療する可能性を秘めている。
2020年には、クリスパーの開発者でゲノム編集のパイオニア的存在であるジェニファー・ダウドナが、ノーベル化学賞を受賞したことで今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げている技術でもある。
ダウドナは、かつて2人のノーベル賞受賞者による指導を受け、若くしてアメリカの権威ある研究所のメンバーにも選出され、ネイチャーやサイエンスといった有名科学雑誌に20本以上もの論文を寄稿している、いわば科学界のエリートで、クリスパーの物語は彼女を通して語れることが多い。
一方で、本書はこうしたダウドナ目線の物語は控えめになっており、多くの無名の科学者たちの物語が中心である。
本書を読めば、クリスパーの誕生が一人の優秀な科学者によって成されたものではなく、多くの科学者がバトンを繋ぐことで実現したものであることがよくわかるはずだ。
私自身も彼らの物語を知る方がクリスパーという技術を理解するにはより近道になると感じている。
その点もクリスパー本の中で本書をお勧めできる理由の一つだ。
クリスパーとは細菌の免疫機能である
ここで本書の内容から引用しながらクリスパーとは何ぞやということを少し解説しておこう。
人や動物、植物だけではなく、細菌もウイルスに感染することはあまり知られていない。
細菌たちはウイルスに対抗すべく独自の免疫機能を発達させた。
それがクリスパーである。
CRISPRとは、細菌ゲノムに含まれる小さな領域であり、そこには、過去に感染したウイルスの遺伝子コードの断片が、将来の感染にそなえて保管されている。各々のウイルス断片(スペーサー配列)が、同一のリピート配列によって整然と隔てられているのだ。
少し表現が難しいかもしれないが、リピート配列とは、ある規則的な配列が繰り返されている領域のことで、この繰り返し領域は、細菌のゲノム全体の約2%も占めている。
当初はこのリピート配列に何の意味もないとされていたが、この配列に意味を見出したのが意外にもヨーグルトを製造する食品会社であった。
サーモフィルス菌のスターター(ヨーグルト製造の重要な原料)を見分けるのに、CRISPRのリピート配列を利用した。「菌株を見分けたり、その由来を見極めたりするのに、この奇妙な遺伝子座を」使ったのだ。
ヨーグルト会社では、美味しいヨーグルトを製造するためにより良いスターター(ここでは乳酸菌のこと)を選別する必要がある。
そして、製造を繰り返す度に、乳酸菌のある一部の領域だけが変化していることが見てとれた。
その領域こそがクリスパーで、乳酸菌はウイルス(ファージ)に打ち勝った証拠にそのウイルスの断片を自らのゲノムに取り込み変化させていたのだ。
こうしてクリスパーの役割が少しずつ解明され、ダウドナたちの研究へと繋がっていくわけだが、この続きはぜひ本書を読んで確認していただきたい。
中国の「デザイナーベビー」ルルとナナ
本書には、先述したようにクリスパーの成り立ちから将来どのように利用されるかまでが書かれているが、2018年、クリスパーの将来を考える上で重大な分岐点ともなる事件が起こった。
それは遺伝子編集を施された中国の「デザイナーベビー」ルルとナナの誕生である。
この禁じられた一歩を踏み出したのは、中国人研究者の賀建奎(フー・ジェンクイ)だ。
この若き中国人研究者は、その後、科学界の英雄となることはなく、大学をクビになり懲役3年の刑を言い渡された。
賀建奎はなぜこうした過ちを犯したのだろうか?
「(欧米では)決まりきったやり方しかありません」とワンは言った。「それなのに、自分たちは進んでいるだとか、最高だとか思っているんです」。ワンには、米国の学会やシンクタンクが決めた小うるさいルールや規制にしたがうつもりはなかった。
クリスパーの物語には、数多くの中国人研究者が登場するが、彼らの持つ才能や向上心はとてつもないものがある。
そして一部の研究者は、先に引用したように欧米科学者への嫉妬心、歪んだ倫理観を持つ者もいるようだ。
本書は、ルルとナナの誕生について多くの紙幅を割いて解説しているので、こちらも見ものである。
神の技術か悪魔の所業か
現代はまだクリスパー黎明期である。
著者によれば、クリスパーが神の技術となるのか悪魔の所業となるのかは今後の人類の選択に大いにかかっていると言う。
DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンは、クリスパーについて、「二重らせんの発見以来の科学における最大の躍進」と称賛しつつも、この技術の公正な使用の重要性を指摘している。
上位10パーセントの富裕層の問題を解決し、その欲望を満たすためだけに使われるなら、恐ろしいことになる
先述した賀建奎のように誰かがルールを一方的に破れば、クリスパーの世間での評判は悪くなり、最悪技術の利用自体が停止されかねない。
しかし、クリスパーは、遺伝子治療、臓器移植、農業への利用など、その応用先は挙げればキリがない程の可能性を秘めている技術である。
ぜひ多くの方に本書を読んでクリスパーの衝撃を味わってほしい。
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