2013年5月14日、ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーが、ニューヨーク・タイムズ紙に「マイ・メディカル・チョイス」という書名記事を掲載し、乳がん予防のため、両乳房切除・再建手術を受けていたことを公表し、日本でも大きな話題となった。
記事によれば、アンジェリーナ・ジョリーの母親が2007年に56歳の若さで乳がんにより命を落としたことを受けて、遺伝子検査を行った結果、乳がんの発症率が非常に高い「BRCA1」という遺伝子の変異が見られたという。
通常「BRCA1」の遺伝子に変異が見られる場合の乳がん発症率は、平均65%とされているようだが、医師によれば、アンジェリーナ・ジョリーの乳がん発症リスクは87%、卵巣がんが50%と診断された。
これを受けて、彼女は“予防のための乳房切除手術”を決心したのだった。
この話を引用したことには意味がある。
近い将来、誰もがアンジェリーナ・ジョリーと似た状況に立たされる可能性が高いからだ。
―目次―
① 人体の全貌を知るということ
② 細胞研究に欠かすことができない技術
③ ヒトゲノム・プロジェクトに匹敵するプロジェクト
④ 誰もが直面する課題
人体の全貌を知るということ
全ての生命は細胞で構成されている。
多くの人は中学や高校の授業でそう習ったはずだ。
しかし、細胞は調べれば調べるほど、本当はいったい何者なのかを特定するのが難しい存在である。
微細なレベルで見れば、個々の細胞は全て唯一無二の存在で、他のどの細胞とも異なっている。
さらに、細胞同士は、お互いの遺伝物質を交換したり細胞内物質を直接共有することができ、なかには融合することで「スーパーセル(超細胞)」となるものがある。
そして、そうした細胞で構成されている生命の中でも、おそらく地球上で最も複雑なのが人体である。
本書は、現代生物学研究の主要な6つの領域について、その内容を一冊にまとめたものだ。
「超分解能で細胞を見る-顕微鏡の発展を見る」「新しい治療法を生むテクノロジーの力-フローサイトメーター」「包括的な遺伝コード-ホリスティックな医療へ」など、その誕生から最新の研究内容が書かれている。
本書はこんな人にオススメです!
✓健康について興味がある
✓生物学研究における画期的な技術について知りたい
どれも通常は、1つや2つの専門分野に絞って書かれることが多いテーマであるが、本書では全体を俯瞰することで、人体を様々な視点から理解することができる本である。
細胞研究に欠かすことができない技術
世界初のDNA配列自動解析装置(シークエンサー)を開発したリロイ(リー)・フッドは、カリフォルニア工科大学の学生の時、教授から2つのアドバイスを受けた。
1つは、常に最先端の生物学を実践すること。
もう一つは、科学領域を本気で変えたければ、新しいテクノロジーを発明するということだ。
その後、フッドは、教授のアドバイスを忠実に守り、タンパク質解析装置や合成装置、先ほどのシークエンサーを開発して、科学界で一躍名を馳せることになる。
このように、科学の世界では、様々な研究技術が開発され科学の進歩に寄与してきた。
新型コロナウイルスで一躍その名を知られることになった、PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)などもそうである。
本書でも数々の研究技術が紹介されている。
そんな中、その名こそあまり知られていないが、細胞研究に欠かすことができない技術がある。
それが、フローサイトメーターだ。
本書によれば、フローサイトメーターとは、下記のような課題を解決した技術である。
実のところ、多種多様な細胞を含む組織、器官、血液のサンプルから単一の種類の細胞集団を精製するのは、生物学の多くの領域に共通の難題であり、研究の進展を妨げる障壁になっていた。
フローサイトメーターは、多様な内容物を含むサンプル内に、どれだけの細胞が含まれているかを数え、さらには、各細胞の種類ごとに振り分けることもしてくれる技術だ。
現在では、研究室でも病院でも、血液、組織、腫瘍のサンプルは日常的にフローサイトメトリー(フローサイトメーターを用いた解析法)で解析されている。
さらに、細胞を種類ごとに数えるだけでなく、ウイルスや細菌の存在も検出ができ、個人の免疫細胞が正常に機能しているかどうかも検査ができる。
このようにフローサイトメーターが、多種多様な細胞の数を数えて振り分けできるのは、一つ一つの細胞にきちんと“ラベル付け”がされているからだ。
そして、このラベル付けの役割をしているのが、免疫細胞である。
免疫細胞により、きわめて高い精度の細胞標識を可能にすることができるのだ。
詳細は本書に譲るが、本書ではこの免疫細胞についてもわかりやすく解説されている。
フローサイトメーターは、生物学の研究では欠かすことのできないツールであるため、本書を読んで理解を深めておくと良いだろう。
ヒトゲノム・プロジェクトに匹敵するプロジェクト
1990年に発足されたヒトゲノム・プロジェクトでは、2003年にヒトゲノムの全塩基配列解読(約31億塩基対)が解読された。
ヒトゲノム・プロジェクトは、13年間で30億ドル(4320億円(=1990年円相場での換算額))もの予算を組んで発足した壮大な研究計画であった。
そして、現在、ヒトゲノム・プロジェクトに匹敵するほど野心的で壮大な試みが世界規模で進められている。
それが、ヒト細胞アトラス・プロジェクトだ。
このヒト細胞アトラス・プロジェクトでは、人体を構成する37兆個の細胞すべてを同定して分類しようとしている。
まさに我々の身体のGoogle Mapを作ろうしているのだ。
このヒト細胞アトラス・プロジェクトが完了することにより、真の意味でのオーダメイドな医療が完成するだろう。
しかし、それは必ずしも薔薇色の近未来を意味するわけではない。
それは、BMI(体格指数)の数値により肥満なのかを定義できるように、どんな特性の細胞がどれくらいの数だけ存在すれば「健康」であるかといった、まったく新しい健康の定義がいくつも生まれることになるからだ。
測定される項目が増えることで、誰もが何かしらの項目で基準から外れることになるだろう。
そうなれば、私たちは常に“何らかの異常”を抱えることになり、おそらくそれは私たちの心理にも深い影響を引き起こしかねない。
近未来では、自身の健康状態がスマートフォンにタイムリーに流れ、人々がひっきりなしにスマートフォンを確認する未来が想像できる。
誰もが直面する課題
何をもって健康とするのか。
本書を読んで感じたのは、今後益々この定義が曖昧になっていくということだ。
冒頭で述べたように、誰もがいつの日か確実にアンジェリーナ・ジョリーと似た状況に立たされることになる。
推定と確率の波に呑まれ、思考も感情も自己認識もいいように弄ばれ、健康や生き方について難しい決断を迫られる。
そんな時、アンジェリーナ・ジョリーのような勇気ある決断を下せる人間は少ないだろう。
本書を読むことで、こうした問題にどう対処すべきかの答えが得られるとは言わないが、そうした背景を理解することが何かの助けになるかもしれない。
本書の著者であるダニエル・M・デイビスは英国の免疫学者である。
前著『美しき免疫の力』で優れたストーリーテラーぶりを披露した著者は、本書においてもその文才を遺憾なく発揮している。
本書は、普段サイエンス本には手を出さないという方にもぜひ読んでいただきたい一冊だ。
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