本書は、映画を倍速や10秒飛ばし、さらにドラマを1話飛ばしで観るという強者まで、そうした見方をする人々に注目し、なぜそのような見方をするのか、その謎に迫った本である。
本来、10秒間の沈黙シーンには、文字通り10秒間の沈黙という演出意図があるはずだ。
それにも関わらず、そのシーンを倍速や飛ばしてみることは、極端な言い方をすれば、作り手への冒涜とも言えるだろう。
そして、本書で取り上げるのは映画を早送りする人だけではない。
中には、ネタバレサイトなどであらすじを全て知ってから映画を見たり、好きな映画のあるシーンだけを繰り返し見るなんて人もいる。
そんな彼らは、映画やドラマのことを作品とは呼ばないようだ。
彼らはそれをコンテンツと呼ぶ。
作品は「鑑賞」するものだが、コンテンツは「消費」するものという違いがある。
本書は、コロナ禍により爆発的に普及したNetflixやAmazonプライム(以降、アマプラ)などにより、映画やドラマを鑑賞するという体験や価値観がどのように変わったのかに迫る一冊だ。
―目次―
① 観る前に内容を細かく聞いておきたい
② 個性を尊重する教育の弊害
③ 思っていた通りの展開になってほしい
④ 終わりに
観る前に内容を細かく聞いておきたい
かく言う私もつまらない映画は10秒飛ばししたり、好きな映画を繰り返し観ることがある。
私だけではなく、きっと多くの人も同じような経験があるはずだ。
しかし、本書には首を傾げるような見方をする人が多数登場している。
「映画館で先に観ていた友達に、最後に二人がどうなるかを細かいところまで教えてもらってから観たんですよ。『だから菅田君はここでこんなこと言ったんだ』みたいなことを細かく理解しながら観られたので、2倍楽しめた気がします」
言い分としては、もし予備知識なしで映画を観て、物語の細かいところが理解できなかったり、細かい演出を見逃してしまったりした場合、モヤモヤが残ってしまうからだそうだ。
それを避けるために最初から要点を教えてもらうと言う。
他にもこんな見方がある。
「いろいろな人の考察を参照しながら映画を観たいので、ブラウザのタブを10くらい開けておき、そのうちのひとつで映画を観ます。このセリフ、このシーンはどういう意味なのかな?と思ったら一旦止めて、考察サイトのタブで該当箇所の解説を読む」
作品を深く知りたいという意図のようだが、このようにコマ単位で止めて観る行為が、本当に“映画を観る”ことなのかと問われると、疑問符がついてしまうのは私だけではないだろう。
個性を大事にする教育の弊害
さて、変わった見方を聞いて驚くのはここまでだ。
ここで疑問になるのは、どうしてそのような見方をするようになったのかだ。
本書では、その理由がいくつか考察されており、この内容がかなり興味深い。
本書によれば、先述したような見方は、若者中心に多くなっているという。
著者が青山学院大学での講義を受講した2〜4年生の128名を対象にしたアンケートでは、87.6%が映画を早送りや飛ばして観ていることがわかった。
しかし、若い人中心にこうした映画の見方が広がっていることに意外性はあまりないだろう。
では、彼らはなぜそのような行動を取るようになったのか。
本書では、その要因の一つとして、個性を大事にする教育の弊害を指摘している。
ゆとり世代は、東京に出てきてそこそこの大学に行って、そこそこの会社に入る人生では足りていないのではないか、と思い込むようになりました。“個性的じゃなきゃダメ”だという価値観が、多くの若者たちの間でプレッシャーになったんです
本来、個性の尊重とは、競争社会や学歴主義に対する代わりとなるものとして生まれた「みんなに優しい価値観」のはずであった。
しかし、皮肉にも、ゆとり世代(概ね1987年から1990年代半ば生まれ)以降は、この“個性的じゃなきゃダメ”という外圧と常に格闘してきたのだ。
さらに、それに追い打ちをかけたのが、SNSやインターネットの普及である。
SNSやインターネットでは、自分より歌が上手い人やダンスが上手い人など、自分の上位互換がいとも簡単に見つけられるようになった。
これは、いくら努力をしようが、常に自分より上の人が隣にいるようなものだ。
そうして、多くの人は、努力をせずとも手っ取り早く得られる個性を模索し始めた。
その一つが、映画を倍速で見るという行動なのだ。
すこし論理が飛躍しすぎているだろうか?
詳しくは本書を確認していただきたい。
思っていた通りの展開になってほしい
本書では、“快適主義”という言葉が多く登場する。
快適主義とは、不快なものをなるべく避けて、いいものだけを取り入れたいという心情のことだ。
例えば、快適主義とは以下のような人々のことを言う。
ストレス解消が目的なので、応援しているチームが勝つ場面しか見たくない。でも、スポーツは応援したからといって必ず勝つわけではありませんよね。言ってみれば、“リターンの博打度が高い”。だから、勝った試合のダイジェスト映像だけを見る。もしくは、特定のチームを応援せず、ファインプレーや点が入った“かっこよくて気持ちいい”シーンだけをみる
ミステリーもので、『この人、殺されるのかな?』ってドキドキするのが苦手なんです。突然殺されてびっくりさせられるのも嫌。込み入った話についていけなくなって『え、これどういう意味だっけ?』ってなるのも気持ち悪いから避けたい。娯楽のために観てるのに、それだと全然楽しめないじゃないですか
普通なら「思っていたのと違う展開になるから面白い」となるべきところだろう。
しかし、快適主義ではその逆で「思っていた通りになる」ことを望んでいる。
多くのSNSでは、知らず知らずのうちに、自分の好きなものをレコメンド(お勧め)してくれる。
私たちは、自分の好きなものだけに囲まれて生活することに慣れてしまっているのだ。
快適主義とは、こうした環境が生んだ価値観なのかもしれない。
終わりに
本書について、Amazonのレビュー欄には“論証が雑ではないか”といったコメントが寄せられていた。
確かに、本書では、映画を「早送りで観る」「10秒飛ばしにする」といった些細な行動を入口に、先述したような”個性を尊重する教育の弊害”、”快適主義”について言及する等、一転して壮大なテーマも扱っているためか、やや説明不足と感じてしまう論点があるかも知れない。
近年、アメリカを中心に、スマートフォンやSNSの普及が、若者のうつ病発症や自殺行為の増加に起因しているという報告が増えているそうだ。
しかし、こうした研究は、まだまだエビデンスが少ないことから、そう結論づけることは早計であるとも考えられている。
本書の内容もこれと同じだ。
映画を早送りで観るという行為がまだまだ些細な行動であることに違いはないが、我々の心理の変化に深く根ざしている行動であることは断定ができるだろう。
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